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徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。
「お髯がなくなりましたわ」
「いや、もう御免蒙つて脱いで行かう」
「ねえ」
「昨日、君とこの奥さんがバスに乗るところを見かけたが、――」
家賃はいくらでもいいと云うから、こッちで勝手にきめて持たせてやったら、多すぎる、と云って受けとったそうだが、東京の相場の四分の一ぐらいの家賃かも知れない。伊東は家賃がやすい。
房一は来意を告げた。やがて、軽い足どりが聞えたので、さつきの看護婦だとばかり思つて目を上げた房一の前に、頭髪の真白な、稍やや猫背の、ぎよろりとした眼つきの老人が立つていた。一瞬、房一はこの老医師と目を合はせた。何か剥むき出しな、噛みつくやうな眼が房一をぢつと見下していた。が、次の瞬間には、それとはおよそ反対な気軽るな声が、
しきりにすゝめられたが、道平は縁側に出て、いつのまにか下していた着物の裾を又尻からげにかゝつていた。頑固といふほどではないが、その様子には円味のある手ごはさと云つた風なものが感じられた。
「えゝ、さうですとも、あれは傑えら物ものですよ。あの師団長は第一答礼の仕方からしてちがひまさあ。かういふ風にね、ゆつくりかう腕を上げてね(と、彼は身振りをして見せる)。めつたに口を利きませんでしたよ。口を利かなくても答礼の仕方がものを云ふんですよ。やあ御苦労だつた、なんて中隊長みたいな軽いことは云ひませんよ。睨まれやうものなら恐いの何んのつて、いやほんとに身体がぶるつと顫ふるへましたよ」
「先生、どうしなさる?着て行きますかい」
体が、と云ふより声が引つこむと、代りにそこに姿を現したのは盛子だつた。すると、うす暗い台所の板敷の上に眩しいやうな、うすい葉洩れ日のやうな気配けはいが立つた。
老父に注意されるまでもなく、房一は河原町で医師として立つて行く上の先々の困難は十分心得ているつもりだつた。どんなに房一が成功者と目されたところで、一方では彼が河場の一介の百姓息子にすぎなかつたことを河原町の人達は忘れていはしなかつた。その上、河原町には古くから根を張つた大石医院といふものがあつた。
遠くの方で誰かが呼んでいた。