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男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持していた。
「あ、さう云へば」
「よし、それでは預つとかう」
正文は顎をつき出しては一寸笑つて、ふむ、ふむ、とひとりでうなづいていた。
「どうして?血はつゞいていなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか」
このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
その「含有量」といふ言葉は富田が昨日聞き覚えたばかりのものだつた。
そこへ降りた時から徳次はもう帯をほどきはじめて、肩にかけただけの衣物を着茣蓙きござのやうにはたつかせながら、誰憚ることもなしに大股で歩いた。日にぬくめられた石ころからは、生暖い、乾いた空気が立ち上つて、足から胸へつたはつて行き、それから思ひがけないときに頬のあたりにぱつと快く触つた。前方には河水のきらめきがあつた。その向ふには草に蔽れた崖地があり、その稍やゝ高味を路が走つていた。そこは滅多に人が通らないところである。たゞ日に一二回、徳次にとつては商売仇である荷馬車の列が、ゆるい、だるい車の音をたてながら、馬は眠たげに首を前に垂れながら、そして挽子ひきこは手綱をどこへ抱へこんだのかと思はせるやうに腕組みをしながら、その崖上の路を地勢に沿つてひよいと見えなくなつたり、又現れたりしながら通つて行くのである。たまに自転車が通つた。それは音がしない。それから何の行商人か、箱を背負つて、紺の脚絆をはいた足をかはりばんこに前に出して歩くのを、こつちから見ると、何てまあ面倒くさいことをして歩くんだらう、あんな風にして一体どこまで行く気なんだらう、と思はせたりした。それも、わざわざ気をつけてでもいないかぎりは耳にも入らないし、目にも入つて来ない。在るものはただ、ゆるい野放図な空気、どんなに踏んぞりかへつても喚いても、たゞすつぽりと包んでくれ、身軽るにさせてくれる空気だけだつた。
「どうぞ」
房一はあれから相沢の息子を診みに五六度行つた。殆どその度ごとに会つているので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つているつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知していた。
云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦こばかにした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つているので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。
風はすつかり途絶えていた。
房一は永い間診察した。ひどい貧血症、食慾のないこと、動悸が打つ、野良仕事はもう三四ヶ月前からできないでいる、――